河井継之助を追って明治維新の混乱は激烈を極めた北越戊辰戦争が会津戦 争とともに悲惨な記録として新潟県民の心を打つもので ある。 明治元年(1868年)長岡城攻防で薩長を中心とする新 政府軍に破れた長岡藩の武士は時の家老、河井継之助と ともに会津へ逃れた。 そして只見町の塩沢、矢沢家で継之助は死亡し、荼毘にふされる。 その医師であった矢沢家はつい昭和50年代までそのまま仏壇を残し ておられ、私が訪ねた時も普通のお焼香をさせてもらうという状況だ った。 (今は立派な記念館が建っているので、是非訪れて欲しい。そのパンフレットから…) 河井継之助は名を秋義といい、蒼竜窟と号した。越後長岡藩に生ま れ、幼児期より聡明にして剛胆、神童と言われた。文武に秀でて陽明 学を修め、水練、馬術、槍術に長じ、特に砲術の研究を極めた。 27歳の時に江戸に学び、斉藤拙道、古賀茶渓に師事すると共に福利 源一郎らとの交流を深め、佐久間象山の門を叩くなど勉学に励んだ。 その後一時帰国して藩政に参与するが、安政5年ふたたび、江戸に 赴き、備中松山の山田方谷の教えを受け、横浜、長崎等に遊学して広 く世界の動きを見聞した。(後略) 河井継之助は潟東の農業を調査に来たと古文書にも残っている。信 濃川を使った各地との交流、戦略、貿易からの世界進出、経済中心の 新しい政治など大きな構想をもった人間であった。激動の真最中に置 かれ、立場上から惜しい命を失ってしまったと考える。 小千谷の慈眼寺での会談でも、交渉相手が岩村精一郎などではなく、 せめてもう少し(西郷隆盛のような)大物なら、長岡の町も優秀な頭 脳も互いに新しい日本のために役立てられたと思うのである。 残念な限りである。その後復興に多くの方が尽力され、小林虎三郎 の「米百俵」は有名な話となった。 今、教職に携わる者のポリシーとして心に刻むべきものであろう。 この二人の生き方を対比し、長岡を潰した者と復興させた者という 見方をされる方もおられるが、ここではその論には触れない。 ただ、私はリーダーとしての生き方を見た限り両人共に素晴らしい 人物であり、まずは素直に学ぶものばかりであると言いたいのである。 内容の紹介が不十分ですが、私が彼に関心をもって調べたもので特 にお奨めを次に紹介しましょう。 ・本→ 司馬遼太郎 著「峠」 ・新潟県の史跡→ 長岡郷土資料館(悠久山)、長岡城後(駅前) 戊辰史跡巡りは越後交通(tel.0258-29-1515)でも受け 付けている。 朝日山古戦場(小千谷) *お奨め 八十里越(入広瀬村から浅草岳麓の林道を登る) ・福島県の史跡→ 河井継之助記念館(只見町塩沢字上の台850-5) (tel.0241-82-2870) 鶴ヶ城(史跡若松城跡 tel.0242-27-4005) *蛇足 「米百表」のこと→ハイブ長岡の前に戯曲「米百表」像があるので、 まずはここを訪れてください。 戊辰戦争で長岡の町は廃墟となり、長岡藩は極度に貧しくなって しまった。明治3年(1870)、士族の中にも三度の粥すらもすすれ ない者が出るなど、困窮していた時に、隣の三根山藩(巻町)から 百俵の米がお見舞いとして届いた。これを配分されると喜んだ士族 の前に大参事、小林虎三郎は「この米は文武両道に必要な書類器具 の購入に当てる。そうすれば文武の稽古もできるし、三根山藩士の 厚意にも添うことになる。」と通達を出した。武士たちの不満は多 かったが、米は売却され、教育に使われたのである。 河井継之助のこと 私は時々この男に興味を引かれることがある。何をやり遂げた人か…と問われ ると歴史的には年表に載せるほどのものはない。悪し様に批判をする人があると 聞く。 それでも、好きなのである。社会のトップ連中が言っていることと裏腹な悪事 をやっていたことが暴露されたりしている昨今。こんな時代にこそ越後人の底意 地を見せてくれた人として、生き様を学ばせてもらう人物である。 郷土が生んだ偉人であり、死ななければ明治維新の担い手になったであろうと 思われる。故に、移り変わりの激しい今を生きる心の支えとして、またリーダー としての魅力を知るためにも彼を知っておかねばならないと思っている。 詳しくは必要ないと思うが、戊辰戦争で長岡藩が戦火を交えなければならなく なった小千谷の慈眼寺の会談、激しい榎峠の攻防戦、瀕死の八十里越え等は有名 である。知りたくて今挙げた所へ何度か出かけて、感慨にひたった。長岡の歴史 郷土資料館にも通ってみた。夏に二度会津に行ってきた。また、終焉の地と言わ れている只見町の塩沢にある矢沢さん宅にもお邪魔した。百年以上の月日が経っ ているのに仏壇には線香が絶えない。と同時にタイムトラベラーの様な心境であ る。益々歴史への想いは深くなるばかりだ。学生の時分にこんな気持ちになって いたら、多分畑違いの職業になっていたと思うのだ。 小学生の頃、「ばあちゃん、家の祖先って侍だったん?」「分からねが、足軽 二人扶持ってとこかな」「ええ?じゃあ牧野の殿様ん所だった?」っと勝手に百 姓ではないと信じてきた。 必要な情報の入らない当時、生と死の狭間でリーダーは何を根拠に決断したか、 何故素晴らしい結束力が出来ていたのだろうか。これは私だけでなく、教室を経 営する教師なら、皆が知りたいことであろう。 朝日山古戦場の上に立ち、何度も考えた。当時の貧弱な食事を調べて、よく耐 え、あんな行動が出来たものだと思った。 新潟市のある中学校では体験学習として彼が落ちのびた八十里越えを歩く行事 を実施したことがある。私は浅草岳を登る道から昔の茶屋跡などを見に行っただ けで、未だ峠越えもしていない。今年こそは…と思うのである。
◆ もどる ◆