![]()
【その1】 飽食日本を考える
何度か同じ事を書いているが、今回新潟の「加島屋」社長、加島長作さん からお話を聞く機会があった。その中で強く印象に残っていることを羅列し てみたい。兎に角このままの豊かな日本は続かないだろうし、今やっている 間違いを物質的にも、精神的にも皆で責任をとることとなるのだろう…と感 じさせられた時間であった。 乳牛の話である。乳牛は乳を採るために妊娠させなければならない。そし て生まれた子牛にその乳を飲ませていると商売にならないから、子牛には脱 脂粉乳を飲ませて我慢させるのだそうだ。これが牧場での実際。 乳牛にも性能(?)があって、年3,000klを出さない牛は用無しとなるのだそ うだ。大体妊娠を繰り返すと平均2.3回で老いてそれ以下となる。受胎期間 は人間とほぼ同じから、2.5年で乳牛から肉牛へと転換される運命なのだ。 親子の別れ、屠殺場への途は動物の感で察知し、涙を流し、見ておれない という。そして、屠殺後の様子も壮絶で湯気の出ている内臓を下に落とした ままクレーンで体をつるして保管するやり方は残酷さながらである。肉を食 する時に少しでもこのような実態を考える人間であるべきだろう。例えばエ スキモーは敬虔な祈りを自然全てに行い、自分の生を感謝しているのだ。 バングラデシュは年間の収入が1$の人が殆どだが、そこの学生は「モノを 大切にしないと命まで大切にしなくなる」と日本人に言っている。まさに、 その通りであろう。食物連鎖の頂点にいる人間がもっとも酷い業を行い得る のであろうが、他の命を食している訳である。それも残飯が100万トンにも 登る今日である。年間の食料の半分以上も捨てている日本。毎日必要な食事 を十分にとれる人口は世界でも数%と聞く。この悪事を一体誰が裁くのだろ うか。
にアメリカに行くことができ、大きなカルチャーショックを受けた。その一つが、この袋をこころの健康が全ての基本 (酒飲みでない女房の実家では5℃よりも冷えたビールは体に良くないと、夏もぬるめ を出してくれる。酒は飲み過ぎないように…飲んでいるうちにご飯を盛ってくれる。 まことに至れり尽くせりだが、益々飲みたくなるのは人情ってものではないだろうか。 で、春に依田 明先生(昭和女子大大学院教授)の文章「健康6月号」を読ませてい ただき、いたく 感激したのである。下に紹介しよう) しばらく前、フィンランドの厚生省は次のような調査を行った。実権群は管理職の50歳 の男性100名。医学的、実権学的に見て理想的な生活をさせる。食事の栄養価はきちんと計 算され、酒も一日おきに適量を飲む。睡眠は十分とるし、適当な運動もする。対象群は管 理職の50歳の男性であるが、生活には一切干渉しない。好きなようにさせておく。 この2つのグル−プを十数年追跡調査した。厚生省の予想としては、理想的な生活をし ている群の男性は健康な日々を送れるだろうということである。 ところが、結果は対照群にくらべると、実権群に病気になる者、死亡する者が多かった のである。厚生省は驚き、調査結果を公表するのを遅らせたのである。 なぜ、こんな結果がでたのか、実権群は毎日管理されているという気持ちで暮らしてい た。 これがかなりのストレスとなって、心の健康が維持できなかったためだろう。 また、医学や栄養学から見た理想的生活に確かな根拠がなかったのではないか。 私自身のことで恐縮であるが、私は医学的、栄養学的理想とは正反対の生活を続けてい る。たとえば、アルコール飲料は数十年にわたって、一日も休まずかなりの量を摂取して いる。医学の教えるところによれば20年間飲み続けると肝臓がいかれ、アルコール依存症 になるという。だから、週休2日制にして、週に2日は飲まない日をつくれとおっしゃる。 しかし、私は今年の健康診断によっても、肝機能はオールAである。アルコール依存に もなっていない。タバコも吸うし、運動はしない。食べたい物を食べたいだけ食べている。 栄養を考えながら食事したのではおいしく食べられないではないか。体重は60kgで 増えも減りもしない。もっと歯垢をとらないと歯茎がいかれるぞと歯医者におどかされ、 ギシギシやられて前歯は1本抜けてしまった。今後絶対に歯垢など取らないと誓ったもの だ。栄養剤とか健康食品などは頭から信用していない。 私は40歳から本当の自分の人生が始まると考えている。40過ぎたら、好きなように生き たいと思っていた。飲みたいだけ飲み、食べたいだけ食べ、生活を楽しむ。今までの人生 で何時が一番幸せだったかと問われれば、今日だと答える。明日はもっと幸せになるだろ うと予想する。 人はいつか死ぬ。生きている間は、楽しく、ハッピーな時間を過ごしたい。こころが健 康であればつまらない病気にはならない。私たちとしては、身体的な健康よりも、心の健 康維持に努力すべきではないか。
本の紹介をしよう。朝日新聞に載っていた書評から バングラデッシュで、旧ユーゴで、ソマリアでチェルノブイリで…人々はいま、何を食べ、 考えているか。世界の飢餓戦線上を彷徨い、ともに食らい、語らい、鮮やかに紡いだ、驚愕と 感動のドラマ。世紀末の食の黙示録。 バングラデッシュで残り物の残飯を食べ、もの食う俗、またはもの食う地獄巡りははじまった。 ミャンマー難民のキャンプで「手垢も土埃もついた」蒸しパンを勇気をふるって食べたとたん、 家族の愛想笑いがきえた。彼らの夕食の5分の1を、著者は好意を表すためにかすめとってしま う結果になった。 「数千の口と胃袋につまっているのは、思想でも主義でも主張でもなくただ食い物ばかり」そん な万国公害の五千席の巨大なレストランでは「人類は頭ではダメでも胃袋で連帯できるかもし れない。」と思ったりもする。 シアカシ、ソマリアの栄養失調と結核の少女。彼女を前にすればもはやインタビューも文飾も ない。著者はただ誤り、ただ拝むのみである。なにを誤り、何のために拝むのか、それは彼に も読者にも解らないが、とにかくそうするしかないのである。新シューゴスラビア・コソボ州、 セルビア正教の僧院では、僧衣のしたに拳銃をつるした修道士が味のない食事をすばやくとる。 チェルノブイリには汚染したキノコと魚を常食とする老人がいる。食べるなというのはやさしい が、では代わりに何をたべたらいいのか。著者はここでも黙して彼らと同じ者を口に入れるだけ だ。 「かって正義と言われたことどもが、こっぱみじんに壊され、今常識と「悪」と同義かと思わ れるほど、すべてゆがみ曲がっている。 ロシアを評したこの言葉は、現代世界全体に当てはまる。輸入したタイ米を2キロ10円で売 ろうとして売れない日本にもむろん。ここにあるのは怒りではなく告発でもない。悲しみであり 不条理へのとまどいである。食という主題は揺れず、代わりに著者の心が大きく波動する。それ が痛く伝わり、「食わや無を得ずして、限りなく続く。」が世界も同様なのだ。と読者をして粛 然たらしめるのは、正に表現の力である。(1994/7/17) …しかし、日本は食料を殆ど輸入している。5400万トンもだ。これが食料自給率135位(170カ 国中)であり、半分が食料である東京都の一般ゴミを考えると、50万人分の食料3日分を毎日捨 てていることとなるのである。世界に、将来に対して大きな間違いを行っていると言えないのだ ろうか。