米を送った三根山藩のこと 
 小泉首相の話で再度有名になった「米百俵」の話にあるように、困窮す る長岡藩に三根山藩から米百俵が贈られた事実をもとにこの戯曲が出来た のです。米をめぐって白刃のやりとりがあったかどうかは興味ある方の話 にゆだねたいものです。  私たちが学生の頃「新潟県教育に関わろうとする者全員の入門書だ!」 って良く言われたものでした。  今はハイブ長岡の前に戯曲「米百表」像があるので、まずはここを訪れ 見ていただきたい。  (米百俵のあらすじ)  戊辰戦争で長岡の町は廃墟となり、長岡藩は極度に貧しくなってしまった。  明治3年(1870)、士族の中にも三度の粥すらもすすれない者が出るなど、 困窮していた時に、隣の三根山藩(巻町)から百俵の米がお見舞いとして届いた。  これを配分されると喜んだ士族の前に大参事、小林虎三郎は「この米は文武 両道に必要な書類器具の購入に当てる。そうすれば文武の稽古もできるし、 三根山藩士の厚意にも添うことになる。」と通達を出した。  武士たちの不満は多かったが、米は売却され、教育に使われたのである。   さて、私がチョット書きたいことはここから…       (詳しくは「峰岡小学校のこと」を見てください)  米をもらった藩の話は知っている通りですが、戦火で疲弊した中で百俵もの 米をこの小さな三根山藩が贈った理由が話題にならないのどうしてでしょうか。 それは三根山藩が長岡藩の支藩でありながら、 親藩を裏切って西軍(官軍、戊辰戦争時)に つかざるを得なかったからなのです。  そのお陰で殆ど犠牲者もなく戦火を免れた のですが、武士の恥は末代まで残ったのでし ょう。  藩士は厳しく学び、目立たず社会に尽くす ように生きたとも言えます。  この小さな村から教員になった人は驚くほ どの数に登るのだそうです。 戊辰戦争後、実に100名になると言われており ます。ここにも米百俵の精神が息づいているのです。  矢川公園(巻町)の脇を通る度に「この川から百俵の米を運び出したのか…」 との思いがわきます。このような教育への心を謙虚に学びたいと思っています。  (写真は岩室村の処理場付近から)
    米百俵のこと 
      米百俵の像と私 (長岡 千秋が原公園)     今こそ改革が必要であると主張していた小泉さんは圧倒的な支持を得て首相になり ました。今でも支持率は86%を維持しています。小泉首相は5月7日、国会の所信表 明演説で「米百俵の精神」こそ「日本の改革に必要」と訴えたのです。  その演説の内容を少し詳しく説明しましょう。途中からですが、こう言いました。 「明治初期、厳しい窮乏の中にあった長岡藩に、救援のための米百俵が届けられまし た。  米百俵は当座をしのぐために使ったのでは数日でなくなってしまいます。  しかし、当時の指導者は、百俵を将来の千俵、万俵として活かすため、明日の人づ くりのための学校設立資金に使いました。その結果、設立された国漢学校は、後に多 くの人材を育て上げることになったのです。 今の痛みに耐えて明日を良くしようという「米百俵の精神」こそ、改革を進めようと する今日の我々に必要ではないでしょうか。」と…話はまだまだ続くのですが、ここ で私から解説をさせてもらいます。  今、日本は700数兆円の借金を持っています。人口が2億人としても一人あたり 400数万円の借金があるということなのです。  アメリカはわずかですが、借金があり、今無くそうと努力しています。ヨーロッパ の国々は殆どこのような借金はありませんから、日本は世界1の借金をしていること になります。実感がないと思います。毎年利息を払ってなんとか凌いでいるからです。  このことは20年も前から言われていたのですが、全く政治家は何も考えずに税金 を使って穴埋めをして来たのです。ここで、利子が増えて動きがとれなくなる前にみ んなで我慢して借金を返して行こうと提案しているのです。  その我慢の話に「米百俵」が使われたのです。この話に戻ります。  明治3年の事です。戊辰戦争で焼け野原となった長岡藩に、支藩の三根山藩(現在の 新潟県西蒲原郡巻町)から見舞いとして百俵の米が送られてきました。  窮乏を極めていた藩士は、米が分配されるのをまだかまだかと待っていたのです。  当時、日に3度の粥さえすすれない者がいると記録にあります。しかし、藩の大参事 小林虎三郎は、この百俵の米は文武両道に必要な書籍、器具の購入にあてるとして米百 俵を売却し、その代金を国漢学校建設の資金に注ぎ込みました。  米百俵は当時の相場で 270両、1両が1万文です。そば1パイが24文だったから、 1両でも4千人がそばを食えると言う大金だったことになります。  国漢学校には洋学局、医学局も設置され、さらに藩士の子弟だけでなく町民や農民の 子供も入学を許可された。ここに長岡の近代教育の基礎が築かれ、後年、ここから新生 日本を背負う多くの人物が輩出された。東京帝国大学総長の小野塚喜平次、解剖学の医 学博士の小金井良精、司法大臣の小原直、海軍の山本五十六元帥……。  この学校は現在、坂之上小学校になっています。  この「米百俵」の故事は、文豪・山本有三の同名の戯曲によって広く知られるように なり、「国が興るのもまちが栄えるのも、ことごとく人にある。食えないからこそ学校 を建て、人物を養成するのだ。」という小林虎三郎の思想は、多くの人に深い感動を与 えたのです。  新潟県と長岡市の教育に対する考え方は、この小泉首相の話で有名になりました。  今ちょっと楽をすることにお金を使うのではなく、我慢しても将来に向かって教育を し、人を育てていくことが大切なのだとこの話は伝えています。  国の借金の話と合わせてみなさんから知っておいてもらいたいし、考えてもらいたい 話です。 -- Back --