![]()
こんにちは!

私は服部芳雄。両川中学校に勤務していました。
ホームページを公開したのは、共に皆様と教育問題
について意見の交流が出来れば幸いと思ったからで
す。立場を離れると、比較的自由な話が出来ます。
皆様から読んでいただきたいと思います。
ぜひ御意見をメールでください。
お願いします。
一連の耐震偽装について この問題は果てしない日本がかかえている諸問題の一角が現れたものと見た方が良いの でしょう。 私が主張したいのは、技術屋の主張、匠の技の絶対性などをすべて軽視し、損得勘定や 商売優先一辺倒のこの国の大きな流れが止まらないからです。 偉い人と言われる人には技術屋がいません。優れた技術屋はたくさん居ますが、その技 術をただ利用するだけで、すべて経済活動の手段としか扱われていないからです。 お医者さん、学者なども同様の扱いでしょう。だから優秀な頭脳は皆海外流出となって しまうのです。 ものの価値がズレた国になっていませんか?日本は。 マネーゲームのようにだましたり、虚をついてお金をたくさん手に入れてもそれは意味 無いものであると、かつてはいましめがあったのではないでしょうか。 「金は汗して手にするモノ」「働かざる者は食うべからず。」なんて言葉は笑いのネタ にしかならないようです。このへんが教育を支えるモラルとしても壊れていると思うので す。 「どうだこのビルは高くて凄いだろう!…お父さんが造ったんだぞ。」なんて親子の会 話が欲しいものですが、子どもにとって、今は働いているお父さんの姿はあまり美しく写 りません。子どもの時から美しいものが違ってきています。働く大人を見る目が違ってい るのです。 ものづくりのとらえ方、市民権があまりにも低く設定された世の中に涙が出てしまいま す。 以前、トヨタ自動車の工場へ生徒を引率したことがあります。世界を制覇する技術力を 味わって欲しかった私の思いこみは見事に外れました。 「大きな機械がガンガンと動いて怖かった。」「汚ったない仕事場から綺麗な車が出て きた。」「あんな事を一生してお金をもらうのは嫌だと思った。」等々、生徒の否定的な 感想にガックリしたのです。 無理もありません。生徒の職業観というものは、綺麗なオフィスの机に向かって、ダベ っているのが会社勤めであり、良い高校、良い大学を出て、自分もその一員になることだ というイメージが殆どだということなのです。これはテレビや雑誌を通して得た大きな彼 らの理想的なイメージなのです。 実際、こうしてものをつくっている人を偉いと称えた事に私は出会っていませんから、 こどもの中にもものづくりは大切なもの、尊い活動などというイメージが作られて行くこ とは難しいでしょう。とても残念なことです。 現実問題として資源も食料もない日本だから技術力や、先進的な頭脳で外貨を稼ぎ、国 の発展を考えて行くしかないのではありませんか。 マネーゲームでは将来が危うい事くらいは誰でも分かりますよね。 ものづくりを底辺から盛り上げ、技術立国日本という方向は今後も最優先課題ではない でしょうか。
佐倉さんの書いた本から 私は「人を殺すな、自分も死ぬな!」という本を読みました。この本は世の若者に、 「せっかく生まれて、ここまで大きくなったのだから、せいいっぱい生きてみよう…」 と呼びかけている本です。著者は自分で開設したフリースクールの東京自由学園の園長 の佐倉一樹さんです。 フリースクールには毎年プロ志望の音楽好きな子ども、声優や俳優、タレントを目指 す子どもがやってきます。 成績が良くて正規の音楽学校や大学に進める子はやって来ません。各学校から退学に なったり、不登校になった子も多く集まって来ます。茶髪にピアスなどという派手な出 で立ちで自己主張をした子どもも半信半疑で集まってくるのだそうです。 彼らは好きな音楽に精一杯の情熱をかけ、「怖い兄貴」であるプロのドラマーやベー シストの先生たちと人間的な触れあいの中で自ら成長していくのですが、その姿が本に 生き生きと綴られているのです。幾つもの例が語られていますが、その中の一つには暗 く、ギターだけが好きという少年の話もあります。楽器を演奏させてみると下手くそで、 少しも上達しません。しかし、練習好きな性格を尊重し、機会をうかがいます。練習を 通して少年も成長し、やがて認められて行くまでがリアルに描かれています。 佐倉さんはもちろんプロのミュージシャンで、このフリースクールに集まってくる生 徒を通して得た信念から大切なメーッセージを若者に発しています。 まず佐倉さんは入学式に「二足のわらじを履ききれ」と言います。卒業資格をとるこ ととプロのミュージシャンになる夢を捨てないということなのです。 若い今、自分に出来る限りの努力をした、努力ができたという自信を持つことが何よ りも大切なことだ。結果としてプロになれなくとも、その自信が社会へ出たときの精神 的な支えになると語るのです。 あいさつも出来ない生徒がプロとして生活できるミュージシャンになるにはどうした らよいか…好きな事ゆえ、暴走族のリーダーだった男さえも、一つの事を徹底すること から人間としても驚くような成長をして行きます。 この自由学園では喧しい決まりはありませんが、好きな音楽の練習を怠けることは許 されません。そのために入学してきたのですから、みんなが努力する訳です。むしろも っと教えて欲しいと頼まれ、夜10時過ぎまで先生も付き合わせられるのだそうです。 私がここで、この話をするのは、「皆さんは人生の中で最もすばらしい時と機会を持 ち合わせていることです。だから自分の成りたい将来、送りたい人生のために徹底して 自分を鍛えてみようではないか、この自由学園の生徒のように…」と言うことです。
三年寝太郎のこと 昔話で「三年寝太郎」という話があります。この寝太郎の話は同じようなものが全国 各地にあります。いろいろな寝太郎がいて、それぞれ悪知恵をはたらかせて騒動を起こ すのです。しかし、結果的には大きな力を発揮して人のためになり、幸せをつかむとい う話ばかりです。 この昔話は後生の人間へ大切な、意義深いメッセージを伝えようとしていたに違いあ りません。 たとえば昔話研究家の筑波大教授小沢俊夫さんによると次の様に、2つのメッセージ を私たちに示していると言うというのです。 あの寝太郎はたっぷり寝ていたけれど一生寝ていたわけではないということ。 疲れたら休むのが大事。くよくよするなよ。余計な心配はするなよ。途中でいろいろ あるけれど、しまいにはちゃんとした人生を送るようになるもんだ。…という事です。 こんな話の底には人間へのゆったりした信頼があるのです。 もう一つは前半であれほど寝たから後で知恵が出せたということです。 『昔話が語る子供の姿』という本にとてもわかりやすく書いてあります。 人にはちょっと力を抜くこともあるけれど、長い人生の中ではここぞと言う時ものす ごい力を発揮できるという例えのようです。大器晩成という言葉もあります。 そうです、すばらしい活躍やがんばりも、まだ寝太郎の寝ている間のことであったの かも知れません。 ようやくにして目を覚まして本当の自分を見つけ、活躍して行く3年寝太郎、それこ そみなさん自身のような気がします。これからの活躍を期待してやみません。
一番の目玉にあがっているのが、中・高校生のボランティア活動の義務づけであろう。 たくさんの知識人からの反対があるにもかかわらず、昨今の少年犯罪の多発を食い止 めるためにも必要であると強硬に実施される運びだ。 なぜ問題なのかを教師の立場で考えると。家庭で「お殿様・お姫様」になっている子 に学校で2週間程度の強制をさせたから心の中まで思いやりが育つものか?と言う疑問 である。まして、指導を学校に任せるというのは投げやりな施策ではなかろうか。 答申では看護実習や自衛隊での体験なども「可」とすると言っている。 今の青少年に団体活動の体験がないから強制させよう…と言うのが骨子のようだ。本 当にこれでいいのだろうか。発想が根本から違うようで怖いのである。よくお年寄りが、 「若い者は軍隊の経験がないから、シャンとしないのではないか」などと話することが あるが、まさにこの発想に近い気がする。 ボランティア活動は確かに思いやりや豊かな心を育てることに素晴らしい場を与えて くれると私も思う。しかしだ、それは自発的に参加する人間に対してであり、ボランテ ィアを通して青少年が自己の存在感を感じ取り、様々な文化を共有するなどして成長し ていく過程で結果として人間性が高まるからである。 今の若者の多くはボランティアに対して正しい認識で多くの活動をしていると思う。 ここは昔の人間の方が遅れているような気がする。ボランティア活動を奉仕とか、寄 付行為のように強者が弱者に行うような捉え方で私も最近まで認識していた。どうもこ の考え方に近いのがこの義務化を貫いている考え方ではないだろうか。 このボランティア活動を学校教育に位置づけて評価し、少年の進路にも関わらせると 言う話だ。つまり「ボランティア活動の良し悪しは、あなたの入試に関わるよ!」っと 脅かすような心の教育をして行くことになろうか。 学校の責任者として、したくない子に奉仕作業をさせる事、それを評価すること…等 々頭が痛い話だ。 青少年犯罪の問題などは社会の歪みに起因する事も多々あろう。(決して責任逃れを する訳ではないが。)なのに、そこにメスを入れずに教育改革だと言いながら、またま た学校に物事を解決させようという発想ではないか。
世界に技術力を疑われ始めた日本 ブリジストンのアメリカの子会社、ファイヤーストーンがタイヤの回収にやっきだ。 650万本をリコールしなくてはならないと言う。 熱気に焼けた道路を高速で走るとゴムが剥がれて大きな事故となるのだ。 すでにアメリカでは88人の事故死が記録され、毎日大きな問題として報道されている。 会社はこれほどの事件に発展するとは思わなかったので、今年までクレームがあっても 殆ど動きをしていなかった。これが不評を買ってアメリカでは刑事責任も追及されかね ない状況となっているのである。 このあたりの動きは三菱自動車に近いものが見られる。これが近年の日本の技術力と 信用を一気に失っている代表の姿である。 で、始業式の話で私が生徒に訴えたかったのはこの暗い部分を見据えて、誠意を世界 に見せていく必要があるという事だ。次世代を担う若者が正面からこの問題を受けて立 たねばならない。資源も食料もない国が信用を失ったら、生き残れないのである。 さて、この事はリコールに従わなかった…というだけの問題ではない。 雪印乳業の集団食中毒事件、茨城県東海村の核燃料加工会社JCOの事故、筑波大学 附属病院をはじめ相次ぐ医療ミス事故から小さなものでは食品に虫 や動物の死骸が入っていたことなど、情けなくなる程の信用失墜行為が蔓延しているこ とであろう。 これは何故か?技術の問題ではないだろう。現場を担う人間の職業意識の低下がじわ じわと広がっているからである。 かつて日本の製品は質が高いと言われた神話がもはや全く嘘になってきたのである。 昔、職人気質と言われた責任感、仕事を通しての社会的な承認などが組織の巨大化や 細分化された分業などで表に出なくなり、ないがしろにされ始め、遂にはその歪みが間 違いを生み出して来たのである。 恐ろしい方向に日本の社会構造が傾き懸けているのに気づかなくてはならないだろう。 企業の一員として能率化や利潤追求などばかりに走らず、日本と言う国を構成してい る一人であるとに意識転換がまだ、まだ足りない。 まして、三菱自動車(私も乗っているのだが)の30年にも渡るリコール隠しやJCO の問題のように事件が発覚してから始めて役所が知るという問題である。官僚はなにを しているのであろうか。ここにも職業人としての責任意識の薄さを感じるのである。 これこそ、今日本が大至急解決しなければならない課題であり、若い人々に期待する 所以である。
相手が嫌だと思うことをしてはいけない 人間には「してはいけない3つ」があります。 その一つは「殺すな」です。この言葉通りに殺人をすることも勿論絶対に認められな いことですが、同じように相手の存在を認めないこと、消してしまうことも同じ「殺す」 ことで、してはいけない事です。 相手の存在を認めない事とは、馬鹿にする、いじめる、無視する等々相手を一人の人 間として教室や学校からなくしてしまうことです。 私がこんなこと言うはとても嫌なことですが、少しくらいはいいだろう…と言う様子 が見られるからです。 冗談だよ…って言って、相手が嫌がるのにプロレスの技を仕掛けて楽しむ、一生懸命 話しかけているのに、知らんぷりをする… 人の持ち物を隠す、いたずらするなども、 やっぱりいじめなんです。こういう事、「殺す!」ってことをやってはいけません。 皆さんが暮らしているこの場所に絶対、「殺す」ってことがあってはなりません。 いじめをしているといいますが、人間の社会で最も大切なことは「いじめをしてはい けない」ことなのです。 読書にも関わる話なので、中学校時代にひどいいじめに遭って、すっかりダメになっ た人の話をここにします。その人は大平光代さんといいます。 彼女は中学校時代に転校をきっかけにいじめにあいました。 ひそひそ話をされ、モノを隠され、ゴミを机の上にばらまかれ、教室で足をひっかけ られ、トイレで水をかけられ、いたずら電話され、病気持ち…とののしられたりしたの です。 何年も続いたこの苦しみから逃れるために彼女は腹を5カ所もナイフで刺して死のう としました。傷の深さは10cmもあり、内蔵に達するものでした。 何とか命をとりとめたのですが、彼女のことを分かってくれる大平さんと出会って勉 強し直し、見事弁護士になったまでのいきさつを本にしたのがこれです。 いじめがいかにヒトを傷つけることなのか、そして見事立ち直り泥沼から這い出した 大平さんに拍手を送りながら、この本から学んで欲しいのです。
コンピュータの利用について 日本のインターネット利用人口が1200万を越えたと言われている。この1〜2年が限 度で、もはや教育にもインターネット利用は避けて通れないだろうと思われる。私の体 験を話したい。昨年例えば4年生が富士フィルムやゼブラボールペンに直接電話をして 資源のリサイクルを調べたが、200円の電話代では数分で切れてしまった…と嘆いていた。 これがインターネットなら市内料金だけで世界中と交流できるのだから、費用の削減に もなるだろう。 上越市は全学校が市の教育委員会とネットワークで結ばれ、リアルタイムで情報の交 流、書類や資料のやりとり、子どもの学習にと役だっているそうだ。市費購入伝票の処 理等もこのようなシステムで行われ、無駄が省かれている。このシステムは新潟市でも 実施されていると聞いている。 上越市に転勤した教頭さんからのメールに、「私も始めました。上越では朝一番に教育 委員会からのメールを見ることから仕事が始まります。」というような事が書かれていた。 確かにこれまでの免外講習などは、指導案のやりとりから準備まですべてメールで済 ませ、当日まで授業者と顔を合わせる事は極端に少なくなった。 県からの調査、通知なども同様なシステムで対応するようにと求められることが多く、 CD-Rやフロッピーで提出して欲しいという指示も何度か受けるようになってきた。 さて、当校の先生方も楽々とパソコン操作をするようになっていて、確かに世の中の動 きそのままを実感している。 そこで、次の大きなねらいを話したいのであるが、教師が作ったホームページはあまり 面白くないものである。学校は生徒が主役であるからだ。 これからは生徒がホームページを作り、活動の姿をリアルタイムで家庭に伝える時がす ぐに来るものと考えられる。 しかし、彼らの描いたものが即全世界へ発信されては、プライバシーの問題も含め、ち ょっと心配である。 生徒のページを見ていただくお客様は90%、地域や保護者の皆さんからで十分であろう。 世界へ発信しても良いが、その前に地域や保護者の皆さんから眺めてもらう。審査して いただく機会が必要なのだ。小学校も含めて教育委員会や市施設のネットワークがあれば、 その中で生徒作品の公開をしていくことが、地域との連携にも実のあることなのだろう。 そこで、インターネットの問題は学校に任せておくのではなくて、市の施設が全て結ば れたネットワークの存在(市イントラネット)が必要なのである。 それには常時接続が可能な市のサーバー構築への計画が進むべきであろう。 また、難しいプログラム操作などができる専門家を市に置くことや、学校への指導をし ていただくことなど要望することは多いだろう。 後半は夢のような話で恐縮だが、今後児童・生徒がコンピュータを使って情報発信をし ていくことは指導要領の通りである。しかし、その情報には多くの問題がある。 プライバシー、著作権を始め、新たな暴力問題が発生しないとも限らない。 便利さの表と裏の部分である。そこで、何としても「学校→商業サーバー」と言う構図 を避けて、「学校→市のネット→外のインターネット」と言う設備にしてもらいたいので ある。児童・生徒の情報交流を市の中でまずやっていただきたいのだ。 生徒は一番に市の施設にアクセスを始めるであろう。 図書館にアクセスして必要な図書を借りるのも良いだろう。福祉施設や農協のお仕事に 質問することも出来たら便利だし、生徒が撮った写真や、絵や作文を地域や市民に見ても らうのも良いだろう。 市の施設や学校とで十分インターネットの便利さ、危険さを理解させる「新潟市イントラ ネット」が必要なのである。