新卒の頃(私を教師にしてくれた生徒たち)



 思うことがあって、恥かしい新卒の頃の話をまた書いてみる。(多少、脚色が

あると感じて読んでもらいたい。)

 大学を出たばかりで、長い学生生活の自堕落さはそのまま、まさに蛆の湧くよ

うな感覚と生活の実際だった。例えば飲み疲れてゲロを吐いた布団は部分部分が

固くなっていたし、食事も空腹が怠惰より勝った時だけ何かを喰うという不規則

な習慣をもっていた。

 ある時、冬季寄宿で小3女児も入舎した。この子が腹痛を起こした夜中に医院

まで背負った時間が「真面目な教師になれ!」と天の声があった時である。

 女児の小さな手が頼りにして背中に食い込む痛さは20代の私には衝撃的だっ

た。学校でも子どもは「頼る者は今先生しかいない」と思って接してくれている

ことを実感したのだ。

 通常寄宿舎は土曜の夜〜日曜午前中は誰もいない。しかし校外テストのために

進学希望者が泊まることがあった。そして私もボランティア舎監をした。ここで

感激したのは、中学3年生が皆分担して、食事や宿舎の運営を全部取り仕切って

いたことだ。朝模擬テストに出かけるために弁当も作る。中3女子が作った朝食

を一緒に食べていると私も弁当がもらえる。「先生もテストが終わるまで遊んで

くれば?ここに昼おくからね。」まさにドラマである。

 昼食をもって学生の溜まり場に行くと、二食もとってない女子学生がこの弁当

を美味しそうに喰った姿を見た時、大学生を越えた女生徒に感激した。自分の低

さを認め、中学生に全力でぶつからないといけないことを肝に命じた。

 これは私を教師“らしく”指導してくれた生徒の一例である。もっと書きたい

が、書き過ぎたら不快感を受けるだろう。しかし、数百倍も重い親からの働きも

当然受けてきた。私たちは子どもや親から教師“らしく”と教育を受けてきた。

“らしく”ないためにどの位、その真心を踏みにじったか、犠牲を出してきたか

恥ずかしくて語れない。だから恥ずかしくない教師を見ると腹が立つ。

 自分が見えることは教師として大切な条件である。いつも教えてもらっている

ことを謙虚に受けとめ、学ぶ糧としたい。