
子どもと給食を一緒にしていると彼らの話題に入っていけない 時間ができる。特に低学年の男子が数人寄り集まった時である。 それは世代間の距離などではなく、明らかに病的なゲーム中毒で ある。ゲームが子どもの生活にしみ込んだお陰で、子どもはゆが んだ成長しかできていないのだ。勤労を厭う、コミュニケーショ ンがとれない、自己中心的、心身共に病的、など多くの問題が関 わっている。私の所でも「ゲームを一番長くやった時間は一日6 時間」と言う子が何人もいる。彼らはめったに汗をかくような遊 びを外ではしない。 そして親からは「大人しくて、がんばり屋 でいい子」であると太鼓判をいただいている。 「違うのですヨ !お宅の子話を聞こうとしないし、キレることがありますよ。ウ サギが死んだと言っても笑っていましたよ…」全く分かっていな いのだから。ここで今、我々が警鐘をならし、大きな流れに逆ら わないと、子どもの大部分が想像もつかない破壊した人格をもつ 大人になると恐れるのである。 思い出して欲しい、10数年も前だろうか、教育評論家が「教育 の自由」を主張して、集団教育や管理教育の悪を言い放っていた が、今はなりを秘めている。その時代は圧倒的に支持されて来た が、多くの少年事件があって今は黙すことが得だと思っているか らであろう。無責任な話だ。彼らは、俗に言う「学級崩壊」の芽 をしっかり作ってくれたのである。 人間らしさや人間としてのわきまえを形成する幼少期の教育を 一切過程を無視して、「人権だ、平等だ…」と一人前の大人と同 じ扱いを主張して「自由教育」を公言した責任は重大である。 小学校で「これはダメだ」と思う子どもの姿に出会うと、あま りに親の幼稚さに唖然とすることばかりである。一体、誰が責任 をとるのだろうか。 先が読める私たちが声を大にして主張していく問題ではなかろ うか。 ここを容認していたら、親も一人遊びをしている子には手が掛 からなくて良いと思うだけである。家での会話もなくて育ってき た子には、言葉も正常に身に付いていない。まして生きる力など、 もう付けるには遅すぎるであろう。 私はゲーム機で遊んでもらう子をなくし、集団活動の出来る子 を今こそ徹底して育てなくてはならないと思っている。これが 「新しい教育」につながるものであろう。 校長としては教育課程の中にいかにこのことを盛り込むか、総 合的な時間や毎日の教育活動にどう盛り込むかであろう。 学級懇談会や子どもを語る会、講演会などを織り交ぜて保護者 と考える姿勢作り、学校便り等を通した啓発活動などあらゆるも のを探って行きたい。最後に、下に学校便りの一部を紹介したい。 テレビゲームで育てるもの 暗い話題であるが、建物をすり抜けて様々な爆弾や銃を使って 人をねらい撃ちする のはシューテングゲームと呼ばれ、最も人気が高いモノである。 コロラド州リトルトン高校で起きた残虐事件で二人の生徒はこの ゲーム同様、拳銃型の握りのついたショットガンを使っていた。 ロスアンゼルスタイムスは「二人は殺人を重ねるたびに、好きな ゲームで遊ぶように笑い、叫んだ」と報じている。そして二人は 最後に自分の頭を打ち抜くことで騒ぎを終えた。ゲーム「ポスタ ル」の結末と同じである。異様な武器の準備、残酷さ、犠牲者を 追いつめつつ発した歓声と笑いなどは全て二人が遊んでいた殺人 ゲームのパターンと一致している。米海兵隊は射撃ゲームを行っ た新兵の方がより反射的に(平気で)人を殺すことができる資料 をもって、ゲーム「ドウーム」の1バージョンを訓練用に転用し ている…テレビゲームが殺人の予行訓練をしているとUSニューズ&ワ ールド・リポートからの引用である。 さて、子ども達の話題をそっと探れば、毎日ゲームの話でいっ ぱいである。「殺す・死んだ」などと言う語は毎日使っている。 屋外で泥んこになるよりは安全で、綺麗な遊びのテレビゲーム、 しかし知らず知らずに正常の心を蝕まれているとしたら安心し遊 ばせておけないのかも知れません。皆さんからのご意見をお待ち しております。