![]() |
![]() |
上は私の家にあるラジオ(ラジカセ類も含む)だ。ざ〜っとかき集めて来たが、まだ数台 残っていたから、ヨット内にある数台を合わせると40台は下らないだろう。何とバカな! っと思われるであろう…が、いえいえこれは「新潟大停電」を境に数倍にふくれあがった 安心指向の結果である。 底には「中越地震」等の様々な天災もあったから、長い間かかっての恐怖からの避難やら 安い安心感買い行動とでも言えばよいだろう。 様々な災害に遭った時点で最も欲しい情報は「今何が起きているのか」「復旧は何時ま でかかるのか」と言う非常に低次元なものである。しかし停電時にはこのような情報さえ、 なかなか入ってこなかった。 正直、情報網がデジタル化すると、数年前は停電でも通じた電話だったがダイアルする事 も出来なくなってしまった。 暖房機は燃料がたくさんあったが、電気が無くて全く稼働せず、手の打ちようが無かっ た。ひたすら寒さに堪えて復旧時刻を待っていた。勤務場所もこの大停電の原因と同様に 屋外電気設備に入り込んだ水が凍結し、一帯が復旧しても施設が漏電し、ブレーカーが落 ちて電気を使用することが出来なかった。この修理時間も入れると元通りになたのは深夜 だった。つまり数十時間は暖房も電気も無い年末の厳しい寒さを味わったというわけだ。 停電だから、何の予告も無く、一切が停止した。偶然携えていたラジオだけが頼りとな った。これによって新潟市は殆どが停電状態であると知った。 大規模停電なら簡単な作業で修復するとは考えにくい。復旧に時間がかかるなら寒い学 校に生徒らをとめておくことさえ出来ないだろう。先の事は予想出来ないので、搬入され た給食のパンと牛乳だけを口にし全員を下校させた。ラジオでは早々と下校させた我が校 の名前が報道されている。皮肉なモノだ。停電の学校は全部同じ歩調を取れないのがこの 世界なのだ。(隣の小学校は午後遅くに下校させたが、これだけで文句言ってた保護者も いた。) ここからが私の資質を問われる対処策。「電気が来て、元通りになったことを確認だけ 出来ればいいから、職員は皆帰宅すること。管理職が残る。」と指示を出した。 まあ、それからが寒さと格闘し、ラジオと長〜いお付き合いをしたと言う訳だ。この時 思ったのは、「今回はラジオの大切さを痛感した。もう1台位は予備を携えて置こう。」 というものだった。 確かに役立った。そして予備も持っていた方が良い。…が、ここまで増えなくても良い のに…私の性格なんでしょうかね。下に新潟大停電のまとめ記事を載せておく。 |
新潟大停電(にいがただいていでん) 2005年12月22日から23日にかけて東北電力の管轄の新潟県下越地方を中心に新潟県の広い 範囲で発生した大規模な停電である。この停電に対する正式な名称は存在しないが、マス メディアなどによる報道ではこの名称が使用されることが多いので、ウィキペディアでも この呼称を用い、本項を作成している。また新潟停電とも呼ばれる。 発生日時 2005年12月22日8時10分頃 - 2005年12月23日15時10分(最長31時間) 2005年12月24日午後 - 2005年12月25日3時00分 2005年12月25日午前 - 2005年12月25日12時06分 発生箇所 (計30市町村、市町村名は停電発生当時) 新潟市(25日にも停電)、新発田市、村上市、阿賀野市、胎内市、五泉市、三条市、燕市、 加茂市、長岡市、見附市、小千谷市、栃尾市、柏崎市、上越市、糸魚川市、佐渡市、山北 町、荒川町、聖籠町、村松町(25日にも停電)、阿賀町(24日・25日にも停電)、吉田町、 田上町、寺泊町、朝日村、関川村、神林村、弥彦村、刈羽村 発生件数 22日 - 23日:最大時約65万戸(そのうち、64万戸は下越地方) 24日:911戸 25日:1,108戸 停電発生・大規模化・長時間化の原因 東北電力の調査によると、停電発生時は非常に強い風が広範囲に吹いており、この風に煽ら れて飛ばされた海水と雪が混ざり塩分を含む氷雪が電線やがいしに付着して絶縁できなくな ったこと、さらに同様の理由で発生したギャロッピング現象により送電線同士が接触しあっ てショートが断続的に起きたのが原因とされている[1]。特に最近の送電線は束ねたタイプの ものも多く、大きく揺れやすいのも電線の接触がおきやすい原因となった。 新潟市周辺の地区には大きく分けて3つの超高圧送電経路が敷設されているが、8時05分頃に 最初の架線切断が起こったことを皮切りに、8時10分頃にも相次 いで2本の超高圧送電線が切 断され、全ての経路において給電ができなくなった。切断の起こった現場付近には、強風に あおられ架線同士が接触することを防ぐ装置は設置されていなかった。また、隣接する北陸 電力・中部電力は共に電源周波数が60Hzであるため、ここから電気を購入し供給することが 難しかった。また24日と25日にも、同様の理由により小規模な停電が発生した。 被害 道路 最大時、県内の広い範囲で約1,160基の信号機が機能を停止し、至るところで交通渋滞が発生 交通事故も複数発生した。 鉄道 JR新潟駅では、22日8時10分頃の最初の停電が発生後、1分以内に予備電源が作動して非常照 明・放送設備が給電されたが、およそ5時間後の12時50分頃には予備電源も一時故障し、駅舎 が暗闇に包まれた。停電の発生が祝日前の木曜日、しかも朝のラッシュ時間帯に重なったこ とから、駅構内だけでも数千人の利用客が居たものとみられるが、利用客・駅係員とも冷静 に行動し、大規模な混乱には至らなかった。その後も停電は続き、14時頃には、朝から抑止 されていた上越新幹線の上り列車を、新幹線乗客向け待合室として開放する措置が取られた 停電の間、駅構内の待合室やテナント等では、暖房が停止した。 列車の運行ダイヤは大幅に乱れた。一時、新潟県内のすべての列車(在来線は県内全線、上 越新幹線新潟 - 越後湯沢間)が運行できなくなった。22日18時30分頃には在来線がほぼ全 線で運転を再開したものの、運休や遅れによりダイヤは終日乱れた状態となった。 上越新幹線では、22日17時頃から新潟駅 - 越後湯沢駅間の運転を再開した。 信越本線では、22日の早朝、荻川駅 - 亀田駅間において下り423M列車(当時 長岡駅発 - 新潟駅行)がパンタグラフに雪・氷が付着し、重みで上がらなくなってしまってき電がで きなくなり、運転できなくなっていた。この影響で多くの列車が抑止されている最中に、 この大停電に見舞われた。そのため、朝のラッシュ時間帯に新潟方面の列車が5 - 6分間隔 で発車する新津駅では、3面5線ある旅客ホームの全てが、抑止された新潟方面の列車で埋め 尽くされてしまう等、大混乱となった。その後、14時から15時頃にかけて、新潟駅で朝から 立ち往生していた上り普通列車(気動車の運用)が新津駅まで運転するなど、数本の列車が 相次いで新津駅まで運転された。 越後線では、新潟駅 - 白山駅間にある信濃川橋梁の風力計が規制値を超えたことで、7時頃 から運転を見合わせていたことも重なり、大変混乱した。 越後湯沢駅ではほくほく線経由の金沢行きはくたか2号が抑止。10時台に犀潟行き普通電車 が先に発車。しかし直江津から先のJR西日本が動いているか否かの情報がままならない上 に犀潟−直江津間の交通がタクシーしかないであろうと想像される中で、満員の状況で発車 して行った。 首都圏より越後湯沢経由で北陸方面に向かった旅行者の多くは旅行中止に追い込まれた。 (以下省略) |